街というデザイン

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いったいこの街は、いや、ほかの街にしても、この国はヒトが暮らすということをどう考えているのだろうか。と、よく思う。いろんな局面で思うことだけど、ここではたんに街をクルマで走っていて思うことを書きたい。
まず看板やお店のサインに制約がない。だから色も形もキチガイ沙汰だ。これは住宅にも云えることで、ヨーロッパでもアメリカでも、家を建てる際に、様々な制約があることは周知の通りだ。屋根や壁、ドア、場合によっては窓枠にさえ、使っていい色や形が街ごとに決まっている。全て詳細が決まっている場合もあれば、ある程度各人の判断にゆだねられる場合もある。それでも街の景観を壊すようなバカなことはふつうしない。街それぞれに美的基準があるということだ。奇をてらった家を建て、「いや〜ふつうの家はつまらないから!」と得意がってるアホとは違い、「個性とはかくあるべき」を知っているのだろう。そんなところで自己主張されても僕は迷惑だ。気持ち悪い。公害とすら思う。だいたいそういう輩は「個性」と「奇異」が同義になってる。
街路灯も同じだ。数年前、前橋市内の国道50号線で、市街地に近いところから県庁までは電柱が撤去され、電線は地中に埋められた。元旦の実業団駅伝の恩恵だ。電線まみれではあまりにもテレビ映りが悪いからだ。だが問題はその後に施設された街路灯だ。黒い柱で電灯のシェードにあたる部分は、恐らく上毛三山を象ったと思われる三ッ山状になっている。
いったい誰がこんなものをデザインしたのだろう?というより誰がこんなものに決めたのかが問題だ。誰がどんな経緯で決めたのか? 市役所のしかるべき部署の課長? 誰?・・・いずれにしても酷すぎる。これも当然税金で造られている。大問題だ。
看板にしろ街路灯にしろ、こんなものを見て「いいなぁ〜カッコイイなぁ〜、将来こんなものつくりたいな〜!」って夢見る子供はいない。それが僕が最も危惧するところだ。因みに例えばミラノ。古いけどカッコいいバス停、デザインは巨匠といわれる建築家の、若き日の作品だったりする。日常的に無意識に触れて、感じて、そして育まれるもののレベルが違う。
僕が昔から「カッコいいな〜」と思っていた関越トンネルの入口は、日本の巨匠、柳宗理のデザインだ。日本にはこういうものが少なすぎる。そもそも街づくり? 都市計画? どんなグランドデザインがあるのか疑問だ。これについては長くなるので日を改めて。

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このページは、sionがNovember 10, 2004 1:55 AMに書いたブログ記事です。

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