「死にたい」と「生きたい」

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埼玉県で、車内で練炭を焚いての集団自殺があったのは、まだ記憶に遠くない。テレビのニュースでは、この出来事に対して、各社様々な評論家が議論を交わしていた。総じて「インターネットの弊害」というところで決着していたように思える。「誘い合って自殺することがけしからん!」「このようなホームページは閉鎖させるべきだ!」等々...。
たしかに、インターネットが、或いはこのようなホームページが無かったら、誘い合って死ぬことはなかったかも知れない。死ぬことに至らなかったヒトも、中にはいたかも知れない。だけど、いずれにしろこんな議論で問題は解決しないし、アホらしいと思った。
ネットもサイトも関係なく、日本は先進国中、著しく自殺率が高いという。そもそも「なぜ自殺者が多いのか?」が最大の問題だ。僕は、「それほどつまらない?」言い換えれば「それほど夢も希望も無い?」と問う。夢が見出せない、生きる希望が無い・・・これは自殺サイト云々の次元じゃない。国家としての大問題だ。いじめに遭おうが辛いことがあろうが、夢や希望があれば生きられると思うからだ。
教育制度にも大きな問題があるとも思うけれど、何よりも僕は“大人がカッコ悪い”からだと思っている。大人が活き活きと生きてない。一例を述べるなら、休日はずーっとパジャマ、リビングで掃除機の邪魔になっているお父さん。それを見た子供は、「カッコいい!」と思うはずがない。自分の将来に不安を抱いて然りだ。こういう大人については別の機会で綴るとして、大人と云われる歳月を生きてきて、出した結論が「死ぬこと」で、インターネットで一緒に死ぬヒトを募る.....これではあまりにも悲しすぎる。望みは、本当に、もう尽きたのだろうか。どうにか誰かが誰かの希望になれないものだろうか。悲しむヒトがいることを分かってほしい。
それから、今まで同様な事件が起きた時、「インターネットの自殺に関するホームページで出会ったヒトたちが、集団自殺するという事件が・・・」という論調だった各報道メディアが、今回の事件から「自殺サイト」と云うようになった。
この言葉が嫌いだ。ことを、更には自殺そのものを軽くするように感じる。若い子がやたらと言葉を短縮したりすることと根は同じだ。

新潟中越地震の悲劇は僕がここで云々述べるまでもなく、新聞やその他報道で周知の通りだ。亡きヒトは30人を超え、そして何万ものヒトが避難生活を余儀なくされている。
帰る家が無くなってしまった、食べたいものも食べられない、足を伸ばして寝ることもできない、テレビもビデオも見られない、勉強も仕事もデートもできない。ダラダラと長時間トイレにこもって新聞を開くこともできない。ただ、生きることに向かい、必死に辛い日々を乗り越えているんだと思う。「以前の生活を取り戻したい」と願うヒト、未来の夢に向け、受験を控えるヒト.....辛くてもそこにはいろんな希望の光があり、必死で惨状に向き合っている。どうにかなるべく早く復興してほしい。そのために僕らができることを、もっと考えなくてはと思う。
避難生活以上に悲惨なのは、亡くなってしまったヒトだ。
どんな夢を抱いていたのだろう。医者になりたかった? 作家になりたかった? サッカー選手になりたかった? ただ、ふつうの幸せが欲しかった? 恋がしたかった? まだ恋愛すら経験できなかったヒトもいると思う、これから楽しいこともいっぱいあったと思う。「死にたい」なんて誰一人思っていなかったと思う。自分の意志に関係なく死を迎えること。こんなに辛いことはないと思う。
だから希望がなくなり「死にたい」と思うより、どうにか「生きるためにどうするべきか」を考えてほしい。自殺しか答えが無くなってしまった時、自分の意志に関わらず死んでしまった人を思ってほしい。「死ぬ」という答えの隣には、「生きる」という答えもあるのだから。

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「生きる」「死ぬ」そして、「笑う」
品川心中という有名な落語がある。
古今亭志ん生の名演が耳に残っている。
話しの内容はこうだ。
江戸時代の品川、それはもうたいへん繁盛していたそうで、京・大阪へ旅に行くものが「これより東海道」と書かれてある棒杭のところまでやってまいります。
「いっていこいや、江戸のことは心配すんな」
「あとのこと、頼まぁ。子供がまだ小さいんだ」
「心配すんなって、ちゃんと可愛がってやるよ」
「女房が...」
「ちゃんと可愛がって...」
「あぅ!?」
などとバカなことを言いながら金を懐へ入れて、品川の宿にやってまいりますと、両側にずらーっと貸し座敷(女郎屋)が並んでおりましてね、懐が暖かいものですから、ついついフラフラと行っちまう。
と、噺がはじまる。
とうが立ってきた花魁が、「移り代え」(衣替えのようなもの)で大金が必要になる。しかし、昔のようにすぐに都合してくれる旦那はもういない。いっそ「死んじゃおう」ということになる。ひとりで死ぬのは、みっともないから、いっそ心中しようということに決め、無責任にも「本屋の金蔵」というのほほんとしているやつが相手に選ばれてしまう。
この男、心中相手を引き受ける。しかし、自分がこの花魁といっしょに死ぬんだということを、ちっとも認識していない。最後の夜だからってんで、花魁にしこたまご馳走され、酒を飲み、すっかり心中のことなど忘れちまったりする。
すったもんだあって、海へ身を投げて死のうということで、桟橋まで来る。
魂が抜けたようにただ震えている金三の尻を、お染はクルッと裾をまくると後ろからダーッ! と蹴飛ばした。不意をくらった金三、もんどりうって海へ落ちた。続いて飛び込もうとするお染を...
若い衆が呼び止め、金の都合がついたと告げる。金蔵のことなどおかまいなしに花魁は立ち去ってしまう。
しかし、金蔵は死ななかった。飛び込んだところが浅瀬だったのだ。
びしょびしょになって、歩いていると犬に追っかけられる、逃げると余計追ってくる、親方のところへ来ると、裏からそっと入ればよかったが、勢いがついていて表の木戸をどんどん叩いた。
親方の家の中では、法律違反の博打の真っ最中、役人が来たと勘違いした連中は、灯りを慌て消して、すったもんだの大騒動...
という落語である。
「心中」という一種の「自殺」を題材にして、あっけらかんと笑い飛ばしてしまう。
落語には、有名な噺に「死」を扱ったものが結構多い。
「らくだ」
「黄金餅」
「死神」
など、どっかで聞いた噺だと思う。
「生きる」「死ぬ」という深刻なテーマを健康に保つための特効薬、それが「笑い」のような気がしてならない。
ストレートに深刻にこのテーマへ突進するものいい。黒澤の「生きる」という映画のように。
ただ、わたしは、「笑い」がわたしたちの体内に「生きたいモルモン」なるものを生み出してくれ「死にたいウイルス」を撃退してくれるような気がする。そして、そのような効能のある「笑い」は、今日、あまりお目にかかれないのが現状だろう。
志ん生の「笑い」は、いい。
筋なんざ百も知ってる「噺」なのに、何回聞いても気持ちがいい。オレは、志ん生の演じる「笑い」を食ってるんだという気分になる。
貴重な「笑い」だ。
「生きたいホルモン」を増やし「死にたいウイルス」を撃退しよう!
そういえば、志ん生すなわち、「死ん生」。
おあとがよろしいようで...

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このページは、sionがNovember 6, 2004 1:37 AMに書いたブログ記事です。

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