先日イスに関することを書いたけど、今日はクルマのシートについて。
今どき(といっても相当前から:車種による)のクルマのシートには“ランバーサポート”という機能があり、この機能を欧米人は概ねふつうに使い、日本人は殆ど使わないという。この機能は専門家曰く、「坐骨結節点(骨盤と背骨が結合しているポイント)を軽く後ろから押して上半身の姿勢を支えてやると、腰(この場合は腰椎)への負担が減る。そのための機能」。だそうだ。つまり、「坐骨結節点を軽く後ろから押して上半身の姿勢を支えてやる」というところがポイントで、これもやや背筋が伸びる状態ができる。つまり、この機能を殆ど使わない日本人は、背筋が伸びる状態より、やはり猫背状態を好むようだ。
これは日本人のドライビングポジションにも関わると思う。日本人はシートバック(背もたれ部分)を倒す(寝かせる)ヒトが多く、ステアリング(ハンドル)が遠くなる姿勢(腕が伸びてる状態)を好む。
なぜそんな姿勢を好むのか、僕も全く理解できない。危険回避能力は低下するし、カッコも悪い。それがカッコ良いと思っているのか、クルマの運転中にそんなにリラックスしたいのか・・・。助手席ならわかるけど、ドライバーはまずいだろうと思う姿勢のヒトが多い。僕が知る限り、特に女性に多いと思う。
F-1をはじめとするレーシングカーを見ても、腕は曲がる状態(ハンドルが近い)で、シートバックは殆ど直角に近い。なぜプロの姿勢はこうなのか、ということだ。
ついでに言えば、助手席の座り方も多くのヒトが全然ダメだ。
やたらとシートを後ろに下げたがるヒトが多い。昨今のクルマの助手席はよくできていて、助手席の足先、前の方の壁になる部分は適度な傾斜が設けられている。つまり、ちゃんとフットレストが施されている。飛行機のビジネスシートや新幹線のグリーン席と同様だ。だからシートの正しい位置は、その傾斜部分に自然に足が乗る位置となる。そうすると背が高くもないのにシート位置を下げたがるのは恐らく無知なだけだ。
モノを知ることは、使い方を理解することと同時にそのデザインを理解することでもあり、意味がある。
更についでに言えば、「モノを知るヒトはモノを大切にするヒトであり、工夫する眼力もある」。僕の経験ではそう思う。
クルマのシートに座る
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今日は暑かった。6月上旬並みの気温でしたね。 じゃあ6月上旬は、というと、9月下旬並みの気温なんですよね。で、9月下旬は、というと、11月中旬並みの気温だった... 続きを読む

最後の4行に胸打たれました。ある種のフィロソフィー感じます。背中丸めてミカン食べながら読んでる場合ではありませんね。すいません・・・。
姿勢について、わたしのよもやま話
わたしの学生時代の女友達に、演劇を研究している人がいた。ふたりとも大酒のみで、阿佐ヶ谷の夜の街をだいぶ騒がせてしまったなんてことは、どうでもいい、が、彼女は、仕舞を習っていて、その難しさをよく話してくれたものだ。わたしにとってそんなことはどうでもよかったんだろう、それが能の舞台で披露される演目の一つだといくことをつい最近知った。相手の話しを聞きながら、今夜はどこで、酒を飲もうかな、なんて考えていたんだろう。
しかし、ひとつだけ憶えていることがある。それは、仕舞では、徹底して姿勢と歩き方を厳しく練習するそうだ。能といえば、そうです。信長が伝説では、よく舞ったとかで、武士の姿勢、すなわち、武芸とのつながりがあるそうです。
いつも歩き方ばっかり練習しているそうです。
Shioyaさんのお話しの中でも、F1のことが引き合いに出されていますが、仕舞の姿勢と歩き方は、エネルギーが集中された静寂の戦いの姿勢です。この古来日本の伝統的な姿勢と歩き方は、ハンバーガーとともに去りぬにはなって欲しくないですね。
従って、何も知らぬわたしが、能の舞台中継をテレビで観て、舞台を歩いて横切るのに、えらい時間がかかるなんて、思ったのは、恥ずかしいことだった、と思います。
夜、薪を炊いて、するのを薪能というそうですが、実際に生で観てみたい。
薪の炎がよるの空気にゆらぎ、静止することへ集中されたエネルギーが、舞台空間を異次元にする。
姿勢、そして、奇妙で素晴らしいピアニスト
こちらは、戦いの姿勢ではない。あのピアニスト。カナダのトロント生まれ、そして、トロントに永眠している。縁あって、トロントにビジネスパートナーの会社があるので、次回行ったときにはぜひ記念館へ行こうと思っている。
ピアニストにとって姿勢は、非常に重要な要素である。しかし、彼は、極端に低い椅子で、猫背になり、ピアノを包みこむようにして、演奏する。わたしは、ここに何か必然的な理由を見つけることができなかった。単純に癖なのか、と思ったりしていた。しかし、その演奏は、彼以外にはなしえない、素晴らしいもので、彼の演奏するバッハの曲は、その新しさ、新鮮さ、繊細さ、美しさ、鋭さ、広がり、爆発し加速する光のような輝きの空間でわたしをたたきのめしてしまう。
ピアニストの名は、グレン・グールド。
彼の演奏風景を見てみよう。あの「なぜ」あんな姿勢なのか、という疑問は、彼の演奏風景を見ることで少しわかるような気がする。ずっと以前、偶然テレビで彼の演奏風景を紹介したドキュメンタリーを観たことがある。彼は、音楽を歌いながら、ピアノを弾く。声も含めて全身が音楽に没頭し、そこに彼はいてもまるで別世界にいるようだ。これほど大きな声で歌いながら弾くピアニストは、クラシックでは彼しかいない。ジャズではけっこうたくさんいる。そして、思い出すのは、あのパブロ・カザルスのこと。かの巨匠は、バッハの無伴奏チェロ組曲を蘇らせた音楽家。あの有名なチェロの旋律は、彼がいなかったら聴けなかっただろう。たしか、3番の第一楽章だったと思うが、ほとんどすべての人がどこかで聴いているはずだ。そのカザルスが指揮するモーツアルトの交響曲がすごい。あのオーケストラの大音響の中から、カザルスの歌う声がハッキリ聞こえるのだ。激しいフレーズでは、それは吠えているようでもある。そして、指揮棒をがちがちと指揮台にたたきつける音。なんという、モーツアルトだろう。これほど、豪快なモーツアルトは他にない。
さて、グレン・グールドは、異常に低い椅子に足を組み、ピアノを抱くようにして、演奏する。この姿を映像で見ると、ピアノと彼があたかも一つのものとなっているように思える。音楽への没頭と集中。そこからしか、彼が演奏するバッハの「ゴールドベルク変奏曲」は、生まれてこない。この世に存在しない、ものすごく美しいものがここに誕生する。
このような没頭とエネルギーの集中により誕生した、もう一つのものをわたしは知っている。
それは、情熱により、自らの姿勢まで変形させてしまった怪物的芸術家。
フレスコ画は、イタリア語で「フレッシュな絵」という意味だそうで、白い漆喰を塗り、それが乾かないうちに絵の具を塗って、絵を描かねばならない。
イタリア。システィーナ礼拝堂。その天井にある絵が彼の作品である。絵の名前は「天地創造」。ミケランジェロの作品である。
彼は、組み上げられた足場に立ち、そっくり返りながら天井にフレスコ画を何年間も描き続けたので、姿勢どころではなく、体自体が後ろへ弓のように曲がってしまったのだ。
ああ、わたしも、その何百分の一でいいから、そのような幸せがあることをわすれないようにしましょう。さあ、姿勢を正して、仕事をしましょう!